愛と幸福について
愛について
「愛」とは具体的な行動ではなくて、心の持ち方「想い」の状態を指すものだろう。

愛と言われている行為には、親切にするとか優しくするとか、歓待するとか罪を許すとかが有る。また恋愛や性愛的な行為も愛と呼ばれている。
しかし、これらの行為は相手を愛していなくとも出来る。それどころか、その行動の最中に憎しみを込めてしまう事すら可能である。
つまり愛とは行為ではない。家族愛は距離に関係なく存在する。
愛とは見返りを期待しない「愛を込めた想い」である。ゆえに普遍的であり、万人や万物を愛する事が可能である。

また、罪を許す事は愛ではない。
悪い事をした人にも愛をもって接する事が重要であるが、優しく接したり許す必要も無い。仮に謝罪の言葉が有ったとしても、 言葉をそのまま信じる必要も無い。
犯した罪は、表面的な謝罪や罰では消えない。罪は本人の真の後悔によって薄まり、懺悔と贖罪の行動によってやがて消えるものだ。 この場合の愛は、これに気付いてもらう事である。
自分の犯した罪に気付き、真の贖罪に結びつく環境に置く事の方が重要だと言える。

幸福について
「幸福」は人生の重要な目標であるが、物の所有や状態に幸福を求めるべきではない。

幸福感は在る事ことが達成させた時に感じる満足感で、欲しかった物を手に入れた時に一番感じるかもしれない。
しかしここに落とし穴が有る。たとえその時は天にも昇る様な幸福感を感じていても、いずれその物が有るのが当たり前になり幸福感を感じなくなる。

幸福感とは満腹感と似ている、満たされたという想いは一時的である。
それゆえ幸福を求めて生きることは、常時満腹を求めて生きることと同じになってしまう。更に幸福感を得ようとすれば、 暴飲暴食や美食と同様になり、肥満や病気の元となり逆に本人を苦しめる。 それを避けようとすれば、食べては吐くという行為を繰り替えせざるを得ない。
食糧が無い時代に満腹を人生の目標とするのは間違いとまでは言えない。同様に物の無い時代に幸福感を求めても間違いとは言えない。 満ち足りる事は無いのだから、ずっと勘違いした幸福を追い求める事が出来る。
しかし食糧が足りてしまったのに、更に満腹を求めればそれは害になる。幸福も同じである。 物が足りたのに更に物に幸福感を求めたのなら、それは逆に本人を苦しめ不幸を産み出す元になる。
しかし、そういう人は自分と他人を比較し、他人より裕福である事を確認し、自分は幸福であると思い込もうとする。 しかも、心の空虚さはやがて飢餓感となり、自分より貧乏な人をあざ笑う事という悪徳をもって、 自分は正しい、幸福なんだと思い込もうとする。

物を所有する事に幸福感を求めた人は、最終的に幸福から遠く離れ不幸になる。無理に求めれば、 物を手に入れては壊すという無意味な行為に走らなければならない。
物を所有する事を幸福や人生の目標だと思ってはいけない。

幸福感を求めるなら、人生の過程に求めるべきである。
目標を決め、それに向かって努力し、その過程で得られる達成感と、それに伴う満足感を幸福感として味わうべきではないだろうか。
そすれば無限の時間や有り余る富があったとしても、いつも新鮮に幸福を感じながら生きて行ける。幸福は無限で永遠に存在するだろう。

2008.10.21
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